ARTISTS

ミン・ゾー:静けさと、簡素さと、その先に

Min Zaw
Myanmar

Written by Myint Myat Thu, Translated by AURA Art

ヤンゴン・ヤンキン地区の自身のスタジオにいるミン・ゾー

ピンクがかった夕暮れを背景に、ゴツゴツと、しかし繊細に描かれた、マゼンタ色の雄大な山より詩的なものはあるだろうか? 控えめに穏やかに、その荒野に優美に応対して、雄大なマゼンダの山を呼び出す画家の穏やかな精神以外、すべてが打ち消される。山がまとめられているフレームにさえ、そこに制限はなく、その広漠とした広がりを強くするだけだ。見事な知覚と結びついたこうした雄大な簡素さは、ミン・ゾーのクリエーションしかない。

  • MOUNTAIN IN THE EVENING: Paper Collage, 50cmx73 cm, 2017

ミン・ゾーは旅行者のように世界を観察する。しわくちゃにしたキャンバスや、紙のコラージュの叙情的な作品で今日高く評価されている47歳のアーティストは、彼自身を(つまり、彼の作品を)再創造できる未踏の地に常に目を向けている。「私は他の誰かになることは好きではありません」と、彼は言う。その他の誰かはまた、その人自身であることができる。もしもミン・ゾーが、いくつかの繊細な色調と、驚くべき構成的様式でミャンマーを再構築した特徴的な風景や、大胆な線で描く女性の肖像シリーズを描き続けていたら、それは非常に並外れたところまで、彼の今日の名声を高めただろう。だがアーティストにとって、自身の想像力に満足してしまう以上に虚しいことがあるだろうか? 「アーティストが自分の作品に飽きてしまうのは実に良いことです。そのことは、他のどんなものとも違う方法で自分の好奇心を目覚めさせてくれる、と信じています」とミン・ゾーは言う。

  • EARLY MORNING: Water colour, 50 X 60 cm, 2007

  • ENTRANCE OF THE PAGODA: Acrylic on canvas, 92 X 92 cm, 2017

  • OLD MONASTERY: Acrylic on canvas, 92 X 92 cm, 2006

歪んだ表面の美しさに偶然出会った日、ミン・ゾーは、ゴミ箱を引っ掻き回して、くしゃくしゃにして捨てたスケッチの紙切れを探した。それから、スケッチをもう一度よく見ながら、今度は机の上に戻って紙にアクリルスプレーで何気なく色を塗った。全体にしわの広がったその表面は、川の斑紋のように生き返り、多重の黒い影の中に優雅に踊る波で、活き活きとしたのだった。支えなければならない表現のための二次的な媒体ではなく、それ自体の美的な力によって、キャンバス(もしくは紙一枚)が作品そのものへと展開する画期的な発見。そしてその瞬間、ミン・ゾーの芸術的生命は飛び立った。

しかしもっと深いレベルでは、この現象は全くの偶然の出来事とは言えない。おそらく、ミン・ゾーより私たちの方が、紙をくしゃくしゃにして捨てる人は多いだろう。何をしていても、どこにいても、ミン・ゾーの意識は常に忙しく、彼が見るものは何でも作品へと蒸留させようとしているのだ。彼の感覚へのこうした強い意識は、目の前にあるありふれたものから、彼がひらめきを得るのを大いに助けてくれる。「美術作品を作るさまざまな過程で実際に時間がかかるのは、新しいアイデアを見つけることです。私にとって、特定のコンセプトを実際の物理的対象(つまり作品)に変換すること自体は、ほんの数時間か数日しかかりません」とミン・ゾーは言う。「私は家で過ごすタイプなので、普段は自分の内面にインスピレーションを求めています。そこでは私と、私の精神の荒野を放浪する想像力だけが存在します」とミン・ゾーは言う。

「唯一の不満は、私は自分の心の速度で、アイデアが現実となるのを見たいのです。鮮やかなイメージが心の中に結晶化するのを感じられても、それを完全に物質的な形にするためには、キャンバスのあちこちにしわをつけたり、ある部分はもう一度平らにしたり、他のものを準備する必要があります。これらはせいぜいすべて、四、五時間のことかもしれません。でも私はフラストレーションを感じてしまうのです」と言う。

  • OLD CITY GATE: Paper Collage, 66x76cm, 2018

また、ミン・ゾーの作品に常にある圧倒的なシンプルさは、ミニマリズムになろうとする意図的な試みではなく、旅行者がある景色を即座に吸収したいという欲求に動機づけられているようだ。彼の作品「Old City Gate」には、人目を引くバガンの黄金の都門の前に、二人の背中を丸めた小さな人物(赤い衣の僧とピンクの衣の尼僧)が描かれている。古代建築家の恐るべき精神と、この遺構を構成している紙のくしゃくしゃの効果は、最良の形で並列している。小さなパゴダや、そびえ立つ山脈を背景にほのかにわかる遠くの山小屋だけのこともある。その巨大なギザギザの縁は、そこに向かって歩けば歩くほど、そこと自分との距離が大きくなることを感じさせるだろう。彼のコラージュが人間を対象物としたものであっても、通常は大きなフレームに数枚の色紙でスケッチのように鋭く描かれた女性像だが、そのシンプルさは決してありのままの姿には見えないが、そのままに完成させている。「これが私の美の見方なのです」と、ミン・ゾーは言う。

  • GREEN FIELD: Acrylic and Paper Collage, 53cmx68cm, 2018

  • TWO MYANMAR LADIES: Acrylic on canvas, 3x3ft, 2015

最終的にミン・ゾーは、自分の心に残る忘れられない印象だけを作り出しているようだ ー言い換えれば彼の作品は、思考の過剰さを取り除いた、彼自身の心象風景だ。これも、旅の中で精神的にも肉体的にもほとんどわずかなものしか持ち歩かない、貪欲な旅行者の特徴だ。「私は自分が取り掛かろうとする特別なものの静けさを思い起こすために、瞑想のように、机に座って絶対的な注意深さを必要とします。私の心が曇っているときに何かを作ることは単に不可能です。そういうとき私は本を、特に旅行記を読んで、そうすると落ち着いた気持ちで取りかかれるのです」とミン・ゾーは言う。

「Ordinary Peoples」シリーズでは、紙で人の体を変形させ、脆弱な社会の鈍い側面を露わにした。それでも、傷ついた胴体と手足は、対照的な色の平面 ーくしゃくしゃにもなっているがー の上に重ねられ、依然としてその崇高な姿を保っている。ミン・ゾーは、「私の想像の中には一つの完璧な創造があり、私がぼんやりした気分のとき、私が置いた作品はそれとは異なってしまいます。それと一致させようとすればするほど、悪くなるのです」と言う。

ミン・ゾーは感傷に浸らないだけでなく、自身の芸術的基準に失敗したと考えると、どれほどコレクターがそれを欲しがっても、アーティストは自分の作品を壊してしまう。「あなたは私が嫌いな作品を気に入るかもしれません。でももしあなたに売ったら、私は自分に誠実ではないと感じるでしょう。だから、将来誰かがそれを見つけて売ってしまう可能性から守るために、私はそれを細かくちぎってしまうのです。コレクターがまだ製作中の作品を欲しがる時もあります。まだ完成していないから、私がそれを気に入るかどうかわかりません。この場合、私は売ることを断ります」と、ミン・ゾーは言う。

彼の作品をある特定のスタイルに位置付けようとすると、あなたは全く困惑してしまうだろう。シンプルな表面の下で、彼の作品は多種多様なスタイルに満ちている:彫刻の堅さ、紙のコラージュやキャンバスのアクリル画であっても感じられる油彩画の厚み、建築の壮大さ、シュプレマティズムのカラーフィールドの至高さ、構成主義の幾何学的な遊び、あるいは単に前衛的な抽象主義など。

でも、アーティストがこれらすべてを私たちにシンプルにしてみせるとき、彼はこう言うのである、「私は山を創っている間、自分が山を登っているように感じるのです」。

著者: ミンミャットゥ(Myint Myat Thu)
ミンミャットゥは、文化研究者であり、美術評論家であり、フリーランス・ジャーナリストです。彼女の執筆記事は、これまでの提携先である「ミャンマー・タイムズ」(英語語版)、「イラワディ」(英語語版)、「ASEF Culture 360」(アジア・ヨーロッパ財団)のほか、ミャンマーでの一流英字雑誌「フロンティア・ミャンマー」でも定期掲載されています。


文責: Aura Contemporary Art Foundation / アウラ現代藝術振興財団