NEWS/COLUMN

なぜメコンの現代アートか – 社会的意義とその魅力 –

写真:メコン現代美術振興財団コレクション「Popil」より、Two-channel HD video, color, sound, 21’59” looped 1/5 + 2AP 2018

1 はじめに

なぜメコン流域諸国の現代アートなのか - この質問には、特に明確な答えはない。

そもそも、アートは本質的に極めてローカルであり、同時にグローバルでもあるので、中途半端にメコン流域諸国という地域的な枠組みを作る意味は、実はないのかもしれない。というのも、メコン流域諸国は、国境を接する隣国であっても異なる文化、民族、宗教、言語などの上で成り立っており、これらをわざわざ一括りにしてしまう必要はないのかもしれない。むしろ、私個人としては、(意外に思われるかもしれないが)地域に絞った展覧会よりも、特定のテーマについて全世界からアーティストを集めた国際展のほうが魅力的に映る。

ただ、「メコン流域諸国」という括りに強い魅力を感じるのは、メコン流域諸国には、国家、文化、民族、宗教、言語などを越えた、緩やかで既存の枠組みとは異なる、曖昧な境界があるからだ。フランスの哲学者ジャック・ランシエールが述べたような「感性的なものの分有」という概念がここには確かに存在し、そのことが私を強く惹きつける。


Phnom Penh Post(2017年2月15日版)より引用

2 社会的意義

東南アジア現代アートの世界において、先人達の圧倒的な蓄積と優れた環境を誇るタイを除けば、ベトナム、カンボジア、ラオス、ミャンマーにおける現代アーティストや作品はまだ十分に紹介されているとはいえない。

日本との関係でいえば、1979年に開館した福岡市美術館(現福岡アジア美術館)がアジア美術の研究、収集、紹介において極めて重要な役割を担っている。しかしながら、1989年に開催された「第三回アジア美術」展で紹介されたのは、タイ、シンガポール、マレーシア、ブルネイ、インドネシア、フィリピンの作家のみである。その後の1990年「物語の棲む社 アセアンの現代美術」展(福岡市美術館/国際交流基金)、1992年「美術前線北上中 東南アジアのニュー・アート」展(福岡市美術館/国際交流基金)や1997年「東南アジア―近代美術の誕生」展(福岡市美術館等) 、「東南アジア1997 来るべき美術のために」展(東京都現代美術館等)において紹介されたのも、メコン流域諸国からはタイのみであり、カンボジア、ラオス、ミャンマー、ベトナムの作家については情報不足からその対象とはされていない。


左:「第三回 アジア美術展」福岡アジア美術館ウェブサイト / 中央:「アジアの36の思考」シンガポール美術館ウェブサイト / 右:「現代の東南アジア美術 それぞれの視点」国際交流基金ウェブサイトより引用

2000年代に入り、2002年「アジアの36の思考」展(シンガポール美術館)において、ついにベトナム、カンボジア、ラオス、ミャンマーのアーティストが紹介された。日本では、アセアンの交流事業として、同展覧会を基礎とした「現代の東南アジア美術 それぞれの視点」展(福岡アジア美術館/多摩美術大学美術館)において、ついに日本においてメコン流域諸国5か国のアーティストが紹介されるに至った。

2010年以降、2013年には「ノーカントリー:南アジアと東南アジアの現代美術」展(ニューヨーク グッゲンハイム美術館)、「移動する目:東南アジアの現代美術」展(イスタンブール ARTER)、2014年には「オープンシー:シンガポールと東南アジアのアーティスト31人」展(フランス リヨン現代美術館)やアジア・パシフィック・トリエンナーレ(オーストラリア)、シンガポールビエンナーレ等において、徐々にではあるが、全世界的にタイ以外のメコン流域諸国のアーティストが紹介されはじめた。日本においては、2017年に「サンシャワー 東南アジアの現代美術」展(国立新美術館/森美術館)が開催された。この展示会でカンボジア、ラオス、ミャンマーのアーティストの存在を知った人が多いのではないだろうか。

とはいえ、現状においては、メコン流域諸国アーティストの展示や紹介は上記に述べる程度にすぎない。まだ知られていないメコン流域諸国のアーティストの魅力を日本や世界に発信していくことが、私の使命である。

3 魅力と憧れ

私がメコン流域諸国の現代アートやアーティストに魅力されるのは、何より単純に、彼らに共通した魅力と憧れがあるからだ。

(1)高濃度エネルギーと生き様

まずは、その生き様だ。メコン流域諸国の多くは、過去に植民地支配を受けてきた。ベトナムは1945年、ミャンマーは1948年、カンボジア、ラオスは1953年に独立を果たし、その後、冷戦の影響を受けながら戦争、内戦、独裁、難民、移民、民主化、民族運動、高度経済成長、都市開発等に直面し、それら社会的事象に対するある種の反抗が高濃度のエネルギーに転化し、アートとして昇華している。

例えば、ミャンマー現代アートの第一人者であるアウンミン(下同氏顔写真)は、途方もない内なる怒りを表現し続けている(ちなみに、本人は怒っていないと述べている)。アウンミンは、ビルマ独立前夜1946年に生まれた。その後間もなく軍部が政権を取ると、ミャンマー美術界は約50年以上に渡る激しい検閲と弾圧の時代を経験した。にもかかわらず、彼の過去から現代の作品を見ればお分かりになる通り、その思想や表現は微動だにしていない。私にこれができるだろうか。これができるような信念の人間でありたいと思うが、きっとできない。その生き様と覚悟に心奪われるのだ。


写真:メコン現代美術振興財団「内なる声に耳を傾けて。ミャンマー美術史を生きるレジェンド・アウンミン」より引用

アウンミン以外にも、その時代背景と滾るエネルギーを基礎に、新しいものを生み出してきたアーティスト達がいる。例えば、西洋モダニズムの輸入と伝統との折衝の中で「アジアとは何か」というアイデンティティを探す過程で、西洋的な素材を放棄したアーティスト、アジアのコミュニティにおける人間同士の繋がりや関係性を再構築する等して、新しいあり方や表現を生み出したアーティスト達だ。彼らの活動はアートでもあり社会活動そのものである。そのような、物質的な何かを作ることを目的としないアートコレクティブの動きにも注目だ。さらには、メコン流域諸国には、伝統的な美術家のみならず、経済学者、法学者、文化人類学者、生物学者等も分野の垣根を越えて現代アートの世界に参入し、表現活動を進めるアーティストもいる。

(2)グローカリゼーション

カンボジアの現代アーティスト達は、まさにローカルでありグローバルでもある。幸か不幸か、現時点でカンボジア国内の現代アートマーケットはゼロと言っても過言ではない。彼らの作品は生まれながらグローバルな世界で戦うことを宿命づけられており、彼らは作品と共に等身大のカンボジアの語り部として、世界中を飛び回り、全世界にその価値を輸出している。これには「私もそうなりたい、そうあらねば」と強い憧れを感じる。

その特徴は徹底的な現地主義であり、ローカルのエッセンスを徹底的に抽出することに何よりも時間をかける。その土地の風土、歴史、文化等を数百年、数千年レベルに渡って掘り起こし、その本質を抽出し、それをグローバルな世界でも劣化しない強度にして、世界中に輸出する。

例えば、カンボジアで最も重要な若手アーティストであるクゥワイ・サムナン(1982年生まれ、Frieze London 2019年、Taipei Biennial 2018年、Documenta 14 2017年、Asia Pacific Triennial 2015年、Singapore Biennale 2013年等)は、様々なメディアを活用し、歴史、文化、社会の様々な事象についての新たな視点、解釈を探求している。主にカンボジア国内の特定の場所、伝統や文脈等を通じた「ローカルな」作品だが、彼のどの作品からも普遍的な視点を感じ取ることができる。


写真:メコン現代美術振興財団コレクション「Popil」より引用
Two-channel HD video, color, sound, 21’59” looped 1/5 + 2AP 2018

2020年8月27日にサムナンはBangkok Art Biennale 2020年の出展作家に選定された。同展覧会では、弊財団が保有する「Popil」(上写真)が展示される予定である。同作品には、漁で使用する蔓で編まれた龍のマスクが象徴的に表われ、それを被ったクメール舞踊の踊り手が二人登場する。これらは(恐らく)ある大国とカンボジアを表しており、二匹の龍はときに愛し合い、時には対立しながら華麗に舞い踊る。カンボジアの美しい大自然の中で、クメール舞踊を特徴付ける円を描くような動きは大河の流れを表しているが、そこには複雑に絡み合う両国の複雑で微妙な関係性が表現されている。これには、カンボジア以外のアジア太平洋諸国やアフリカ諸国等の世界の人達からも共感を得られる部分があるはずだ。

誰が見ても分かる雄大な自然美とユーモアに溢れるエンターテインメント性という普遍的な価値に加えて、21分59秒の時間の中に投影される多義的で何層にも渡る意味深い問題提起がグローバルな現代アート愛好家を魅了し続ける。私もその一人として、彼らの途方もないエネルギーと生き様を追いかけ、グローカルな事業家として学び、吸収し続けたい。


メコン現代美術振興財団 代表 藪本雄登